楽園インプレッション
旅行記・歴史・天気予報・危険情報壁紙ダウンロードスクリーンセーバー ダウンロード楽園フォトギャラリーベストシーズ カレンダー楽園リンクヘルプ

タイの歴史

タイ

サイト内 関連リンク

サムイ島旅行記




参考・出典

タイ 個人旅行
るるぶタイ るるぶ情報版

先史時代

 タイはその遺跡の豊富さから先史時代より文明を持った人々が暮らしていたと推定されている。インドが出身地と言われる先住民のドヴァラヴァティ人たちは、少なくとも5000年前には稲作を始め、農耕文明の礎を築いた。タイのスピリットケーブで見つかった稲作の遺跡は、紀元前6800年よりも前の物と言われている。

 青銅の使用は中東に起源を発していると考えられていたが、タイのバン・チャン近くで発見された遺跡により、タイの青銅技術は紀元前4500年前から知られていたことを示している。これは中東での青銅の使用よりも数百年も先になる。ギリシャには紀元前3000年まで、中国には紀元前1800年まで青銅は入っていない。つまり世界最古の青銅器文明は今までのところタイということになる。

 タイ族祖先の源流は紀元前6世紀頃、中国の長江(揚子江)南部地域にあり、紀元前1〜2世紀頃に雲南省南西部に移り住んだとされ、更に南下して現在のタイ北部に移動し定住したと言われている。西暦220年頃、漢王朝の崩壊に続いてタイの首長たちはナン・カオ王国を設立した。その後タイの人々は南への移住を始め、何世紀にもわたりマレー半島を下り、東のカンボジアまで到達する。チャオプラヤー河流域は水耕農業に適した土地で、人々はここに水田を作り定住した。

スコータイ王朝

 6世紀頃になると、先住民の中でも集団生活に長けたモン族が勃興、タイにはいくつもの小国家が誕生した。仏教が伝わったのもこの時代で、モン族の遺跡には多くの宗教建築跡が見られるが、国家の歴史は遺跡の数ほど伝わっていない。その後、モン族の国家はアンコール(カンボジア)に拠点を置くクメール帝国の圧力を受け、11世紀にはその支配下に置かれた。

 12世紀に入ると、タイ族はムアンと呼ばれる首長制の小国家を各地に形成した。12世紀の終わりまでには、いくつかの小国家は統合され、衰えを見せはじめたクメール帝国に挑みはじめる。13世紀前半、スコータイのクメール族を駆逐し、シ・インタラチット王が完全な独立を宣言、タイ族による最初の統一王朝となるスコータイ王国を建国した。シ・インタラチット王は王国の影響範囲を拡大し、現在のタイ南部にまで領土を広げる。

 第三代ランカンハエン王の治世、タイの軍隊は現在のシンガポールの位置まで征服を完了した。この時代の支配地域は、現在のタイとほぼ同じ面積に達している。領土拡大だけでなく、仏教を国家の中心にすえ、タイ文字を考案するなどランカンハエン王は文化的にも貢献した。多くのタイ人はスコータイ時代を、彼らの国家の誕生とみなし、文化、政治、宗教、そして王国が平和だった時代だと認識している。

ランナータイ王朝

 13世紀末、チェンセーンに出現したメンライ王がハリプンチャイ王国を征服して、ランプーンの北方の盆地チェンマイに都城を築きランナータイ王国を建国した。その後14世紀にアユタヤ王国が建国されると、スコータイ王国をアユタヤ王国と奪い合い、15世紀にはスコータイ、ビルマのシャン州地方、雲南省の一部までを版図に組み入れた。その後も領土を拡張し、タイ北部のほとんどを統治するようになる。しかし16世紀中頃になると、強大なトゥングー朝ビルマの侵略を許し、その後200年以上にわたりタイ北部(及びラオス)はビルマの属国となった。

アユタヤ王朝

 スコータイ王国ランカンハエン王の死後、ペグ朝ビルマの家臣らが反乱を起こし、タイ西海岸の港町メルギとテンセリンを征服した。ランカンハエン王の息子、ロエタイ王はこれらの港の戦略的重要性を理解しておらず、港町の奪還に消極的だった。ロエタイ王の態度を見た中部タイ、ロッブリーの太守ウートーン候は、自身の軍隊を差し向けビルマから港を取り戻し、港町を支配地域に加えた。

 ロッブリーに伝染病が蔓延したのをきっかけに、ウートーン候は軍隊を引き連れて南下、中部タイの港町アユタヤに移動する。アユタヤはチャオプラヤー、ロッブリー、サクと3つの河が合流する島にあり、シャム湾まで約110キロの距離にある。アユタヤの地は、陸地に囲まれたタイ中部と北部に対する統治するのに適していた。

 1351年、ウートーン候は自らラーマティボディ王と名乗り、アユタヤに首都を建設、アユタヤ王国を建国した。一方スコータイ王国は次第に衰退し、タマラージャ4世の死後、完全にアユタヤ王国に併合された。アユタヤ王国はスコータイ王国と同様、先住民のモン族やクメール族を征服することによって勢力範囲を広げていく。そして15世紀前半にはカンボジアに侵攻し、アンコール朝クメール帝国を滅ぼした。

 アユタヤ王国の繁栄は内政と経済の両面で成功したことに要因がある。モン族から学んだ「インド法典」を国家の法典とし、クメール帝国の中央集権体制を取り入れ王政を磐石なものとした。経済面では諸外国との貿易を推進、インド・中国間の「陸のルート」と「海のルート」の両方を支配し、東南アジアで最も裕福で重要な都市へと急速に成長した。アユタヤ時代はタイの権力と影響力の全盛期で、その勢力範囲はスコータイ王国をはるかに上回り、現在のラオス、カンボジアのほとんどと、ビルマ、マレーシアの一部にまで達していた。

 アユタヤでは、チャオプラヤー川とその支流を通じてもたらされるタイ内陸からの物流と、タイ湾を通してやってくる東南アジア交易網とが結びつく地点にある地の利を生かして、交易が盛んに行われた。アユタヤ市の南東に各国からやって来た外国人達の集まる外国人町ができ、日本人も自分たちの町を作って暮らしていた。

 日本人町の人口は最盛期で1500人以上いたと言われている。アユタヤ王朝では王を警護する最強の近衛兵は全て日本人の武士で固められ、近衛隊長は日本人町の頭領が勤めていた。日本人武士の強さはアユタヤはもとより近隣諸国に知れ渡っており、戦の時はアユタヤ軍を率いて甲冑姿の日本武士団が先陣を果たしていた。

 戦功を重ねるうち、近衛隊長の宮廷内での影響力は次第に強くなり、有名な山田長政などは、ソンタム王から最高位の官位「オークヤー」を賜るに至った。しかしシャム人から見れば外国人の日本人が最高官でいることに反発する勢力もあった。

 ソンタム王崩御による王位継承をめぐる争いでは、長政が推す亡き国王の遺児が新国王の座につくと、王族でもあり高官のカラホームは、長政を警戒し宮廷から遠ざけるよう画策。そしてアユタヤから遥か南に下ったアユタヤの属国であるリゴールの国王になるよう薦め、長政はこれを受け入れた。リゴールに移った長政は、隣国のパタニー軍との戦闘中、右太ももに傷を負い、その傷に毒を混ぜた薬をすり込まれ非業の死を遂げた。その後アユタヤの日本人町は、徳川幕府の鎖国政策により次第に衰退して行った。

 1569年、アユタヤはトゥングー朝ビルマの侵略にあい一時的にビルマの支配下に置かれるが、ナレースワン王がビルマ皇太子との騎象による一騎打ちでこれを倒し、アユタヤを奪回した。しかしその後も度々ビルマの侵略を受け続ける。18世紀になると、内部的に軋轢を生じ、王位継承問題が発生して弱体化していく。1767年、シンビュシーン王率いるビルマ軍3万の攻撃を受け、14ヶ月にわたる包囲攻撃の後、1日にしてアユタヤは徹底的に破壊された。アユタヤ王国は、初代国王ラーマティボディが王朝を築いて以来416年にわたる歴史に幕を下ろした。

トンブリー王朝

 アユタヤ王国配下にあった、ターク(チェンマイの南)を治めていたタークシン将軍は、首都アユタヤにビルマ軍侵攻の急報を聞き付け、救援にかけつけるが時すでに遅く、アユタヤは破壊され王朝は滅亡した。タークシンはビルマ軍の攻撃をかわしチャオプラヤー川を南に下ったトンブリーの要塞を奪還、東南タイの華僑などの支援を受けビルマ軍を撃破し、トンブリーを首都として国王に即位(タークシン王)した。

 タークシン王は部下だったチャオプラヤー・チャクリーとスラシーの兄弟を起用し、1770年頃には現在のカンボジア、ラオスから、南はマレーシアを含めた広大な範囲に支配権を持つまでになった。しかし中国人の父を持つ混血児のタークシン王は、華僑やイスラム民族を側近や官僚に多用した為、かつての貴族からは成りあがり者としてみられ、劣等感を持つようになった。更には、自分は悟りを得た者と大言壮語を口走るようにもなり、僧侶たちの反感をかってしまう。

 1781年、チャクリー兄弟がカンボジアに出征していた時に、首都トンブリーで官僚達によるクーデターが起こる。兄弟は急ぎトンブリーに帰還すると、兄のチャクリーは官僚によって国王に推挙された。タークシン王は、部下であるチャオプラヤー・チャクリーにより、当時の王族の習慣に基づいて処刑され、トンブリー王朝は一代限りで滅亡した。

チャクリー王朝

 ラーマ1世・チャクリー王(在位1782〜1809年)は、仏教の敗退がアユタヤ王朝衰退の一因と考え、改革に取り組み、「経」「律」「蔵」の「三蔵経」を整え、新規に発布した「法律」を追加して「三印法典」を編さんした。政治体制においては中央集権化を図り、チャオプラヤー川を挟んだトンブリーの対岸バンコクに新しい都を建設するとともに、経済対策では中国を中心とした貿易に力を注いだ。ラーマ1世のこの多くの業績は、この後のタイ王国の繁栄の基礎となった。

※ チャクリー王朝は、首都がバンコクにあるためバンコク王朝、あるいは、王宮が運河とチャオプラヤー川に囲まれたラタナコーシン島にあることからラタナコーシン王朝という別名がある。

 ラーマ2世・プラプタヨドファ王(在位1809〜1824年)は、父王が在任中も副王として政務を補佐していた。このころ隣国ビルマの脅威は次第に弱まり、反対にベトナムが国力を増強し近隣の国々に勢力を伸ばした。国内では、ラーマ1世正室の実家であるブンナーク家が勢力を伸ばすなど、貴族が権力を増し王位継承にまで口を出すようになる。

 ラーマ3世・チュートサダーボディン王(在位1824〜1851年)は、ラーマ2世の側室の子ながら、有力貴族ブンナーク家の推挙により国王となった。即位の年はイギリスとビルマの間に戦争が始まり、ビルマは敗北してイギリスの植民地となった。更にイギリスはタイに対して、自由貿易を迫ってきた。首都バンコクにはキリスト教の宣教師や欧米人の商人が渡来し、宗教的にも仏教に対し挑戦を挑むようになる。

 ラーマ4世・モンクット王(在位1851〜1868年)は、映画 『王様と私』のモデルとしてよく知られている。ラーマ2世の正室の子でありながら、ラーマ3世との王位継承争いに敗れ、僧院で修行生活を送っていた親王時代は、積極的にキリスト教の宣教師達と交わり、欧米の新しい知識を得、来るべき新しい時代への準備期間を過していた。国王に即位してからは、西欧諸国と通商条約を締結し、国家の近代化に着手する。

 ラーマ5世・チェラロンコン王(在位1868〜1910年)は、マラリアで病死した父王ラーマ4世に代わって15歳で即位。成人し政務の全権を握るようになると国内の政治改革に着手し、当時政治を牛耳っていた貴族を排除し、内閣制度を発足させた。社会的には奴隷制度(トータ)と身分制度(プライ)を廃止し、国民に教育を受ける事ができる制度も確立、他には法制度の整備、国軍の近代化、警察組織の整備などを手がけた。

 経済政策としては、鉄道や道路の交通基盤の整備、郵便や通信設備の新設など、国内の近代化を推し進めていき、まさに名君と呼ぶに相応しい実績を積み上げていった。近隣諸国が次々と欧米諸国の植民地になるなか、タイ王国はラーマ5世の近代化政策によりアジアで唯一、植民地にならなかった。その卓越した経済手腕からラーマ5世は、現在も一般市民から「商売の神様」としてうやまわれて、商店ではラーマ5世の写真が飾られている。

 ラーマ6世・ワチラーウット王(在位1910〜1925年)は、海外留学でイギリスに9年間滞在、陸軍士官学校に入学し、卒業後は軍隊で将校として働いたり、名門オックスフォード大学で学問を積み重ねた。帰国後の1910年、父王に代わって即位する。ラーマ6世は国民の文化的高揚の必要性を感じ、義務教育の制定やチェラロコーン大学の設立に代表される学校教育機関の充実を図る。

 また第一次世界大戦に同盟軍として参加したのをきっかけに、これまで使用していた象がデザインされた国旗を、現在の三色旗に変更した。ラーマ6世、すなわち第6代ワチラーウット王の時代から歴代の国王をラーマと呼ぶ習慣がついた。

立憲君主国家へ

 ラーマ7世・プラチャーティポック王(在位1925〜1935年)は、即位後すぐに王族による最高顧問会議を設置、財政の改善を試みるが、世界大恐慌が更なる財政悪化を招く。財政改善の為、公務員の減俸や官庁の統合により解雇された職員の不満が官僚全体に膨れ上がり、王族に矛先が向けられた。そして西欧留学経験者と不満分子が結び付き「人民党」をつくり、1932年6月に「立憲革命」が起こった。

 革命直後、タイ最初の人民代表者会議が開催され、プラヤー・マノーパコーンイティターダ内閣が成立、同年12月、全68条からなるタイ最初の憲法「シャム王国憲法」を発布した。現在でもこの日は「憲法発布記念日」として、国民の休日に制定されている。ラーマ7世は政府に民主化を要求するが拒否され、1935年に退位した。

 ラーマ8世・アーナンタマヒドン王(在位1935〜1946年)は、僅か10歳で即位、当時武官派によって権力の中枢から遠ざけられていた人民党の文官派のリーダー、プリディ・ファノムヨンが摂政となった。1939年6月、ルワン・ピブーン・ソクラーム首相が国名をシャムからタイに変更する「国家信条第1号」を布告、正式に国号を改名した。

 1941年、第二次世界大戦が勃発すると、タイは中立を宣言をするも、首相のピブーンは日本と「日泰共同作戦協定」の密約を締結、連合国に宣戦布告した。しかし終戦と同時に摂政のプリディは宣戦布告は無効と公表。成人したラーマ8世は留学先のスイスより帰国するが、1946年6月、宮殿内にて謎の死をとげた。

 ラーマ9世・プミポンアドゥラヤデート王は、まだ学業も終わらない19歳で即位した。1946年12月、タイは55番目の国として国連に加盟。一方、人民党による支配は、民主政治を標榜しつつも結局は武官による独裁政治へと変っていった。第二次大戦後のタイは軍部に支配され、20回以上のクーデターを経験する。1979年の民主選挙後は、軍部から経済エリートへの権力の移行により長期間の安定と繁栄を見たが、1991年2月、軍事クーデターによりチャチャイ政権が倒された。そして1992年5月、スチンダ将軍を首相とする軍部内閣が成立する。

現代 タイ

 スチンダ政権に反対する市民は、抗議集会やデモを連日開催し、1992年5月、カリスマ的なバンコク知事のチャムロン・スリムアンに率いられたいくつかの巨大なデモが、バンコクと大きな州都を封鎖する。特殊部隊によるデモの残忍な鎮圧は、スチンダ首相を辞任に追い込んだ。1992年9月、5党連立によるチュアン・レークパイ政権が成立するが、チュアン政権は優柔不断さと土地改革スキャンダルで崩壊し、1995年5月、チュアン首相は下院を解散した。

 1995年の総選挙で野党が過半数を制し、7党による連立政権バンハーン・シルパ・アーチャ内閣が成立した。しかし、経済の停滞や度重なる汚職疑惑により国民の信頼感は低下し、1996年9月、不信任案審議の後、下院を解散した。

 1996年11月、新希望党を第一党とするチャワリット・ヨンチャイユット内閣が成立。チャワリット政権は経済の低迷、金融・為替の安定等の問題解決のために次々と施策を打ち出すが、タイ経済に対する市場の信頼回復は進まず、1997年8月にはIMFの融資が正式に決定された。チャワリットは新憲法公布という業績をなしえた一方、市場の信頼回復を図る包括的な対策の失敗により、国民から厳しい批判と退陣要求を受け辞任した。

 首相の辞任表明後、野党と旧連立与党の間で連立形成に向けて駆け引きが行われ、1997年11月、野党「民主党」党首であるチュアンが首相に就任、第二次チュアン内閣が誕生した。チュアン政権は成立後、選挙法、政党法等新憲法の関連法案を制定し、最重要課題である経済問題の解決に取り組み、堅実な成果を上げた。

 2000年3月には97年憲法の規定に基づき、タイ初となる上院選挙が行われた。2001年1月、下院の解散による総選挙では、情報技術・通信業界で成功を収めたタークシン・シナワットの「タイ愛国党」が圧勝し、タイ愛国党、新希望党、タイ国民党、自由正義党4党連立によるタークシン政権が成立した。