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沖縄(琉球)の歴史

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参考・出典
るるぶ沖縄 るるぶ情報版
逆説の日本史〈9〉戦国野望編

先史時代

 琉球列島にいつ頃人が辿り着いたのかは、はっきりと解明されていない。沖縄本島、宮古島、石垣島などには古くから創始伝説が残り、創始神が祀られている。那覇で約3万2000年前の山下洞人の骨が見つかり、具志頭村では約1万8000年前の港川人の骨が出土しているので、古くから沖縄に人が住んでいたことは間違いない。約6000年前、九州縄文文化の影響を受けた土器が現れ、後に弥生土器も作られるようになった。
 ※『隋書』「琉球国伝」によると、7世紀初め、隋の帝である煬帝(ようだい)が琉球に服属を求めたが、琉球が従わなかったので兵を送り征伐したという記録がある。聖徳太子の使者 小野妹子が煬帝のもとを訪れた時、隋の人がそのことを訊ねたところ、妹子は 「彼等は夷邪久国の人だ」 と答えた。「いやく」は屋久島のことらしく、九州南方の島々を総称して「屋久」と言ったようだ。中国古語では、「琉球」が「夷邪久」に近似する。
 ※琉球の『日本書紀』ともいえる『中山世鑑』(ちゅうざんせいかん)には、琉球の島々を造ったのは天の最高神であり、その神が次に夫婦の神を地上に下したと記されている。夫婦の神は二男三女をもうけ、長男は国王、次男は諸侯、三男は農民の祖先となり、長女は王妃、次女は巫女の祖先となった。長男の子孫を「天孫氏」と呼び、氏の系統は12世紀末まで25代以上にわたり沖縄を支配していた。

城(ぐすく)時代

 10世紀頃、人々は小高い丘や斜面に暮らし、米や麦などの農耕が行われ、須恵器、陶磁器、鉄器の使用が始まる。集落単位に城(ぐすく)が築かれ、按司(あじ)と呼ばれる族長がその集落を支配した。按司は集落とその周辺地域を要塞化し、近隣地域と激しい抗争を繰り返した。
 12世紀末、天孫氏の王の重臣である利勇(りゆう)が謀反を起こし、王を殺して自ら王を名乗った。しかし按司たちはこの謀反人に従わず、浦添の按司 舜天(しゅんてん)が勇利を討って国を統一した。『中山世鑑』は舜天王の沖縄支配から記述を始めていることから、舜天以前は伝説であり、実際の沖縄王朝初代の王は舜天といえる。
 ※『中山世鑑』によると、舜天は 1156年の「保元の乱」で敗れ伊豆大島に流された源為朝の息子だとされている。為朝は配流の地で反乱を起こし、船で琉球の地に流れ着いた。そして為朝と琉球の女性の間に生まれた子が舜天だというが、伝説の域を出ない。今帰仁村の運天港は、為朝が嵐の中 漂着した港だと伝えられている。ちなみに為朝の曽祖父は源義家で、源頼朝や源義経とは叔父・甥の間柄。
 舜天王の系統は、第三代の義本(ぎほん)で終わりを迎える。義本は「禅譲」により大臣だった英祖(えいそ)に王位を譲ったとされているが、本当のところは定かでない。「禅譲」とは、王の徳がないため国が乱れたので、もっと徳がある人物に王位を譲るということで、当時の沖縄には中華思想が深く浸透していたことが窺える。

三山(さんざん)時代

 14世紀初め、沖縄本島は他を制圧した3人の按司によって支配されるようになる。3人は、北部に今帰仁城、中部に浦添城、南部に島尻大里城をそれぞれ拠点として互いに覇権を争った。明(当時の中国)ではこの3つの勢力を三山(さんざん)と呼び、三山はそれぞれ明に使者を送り、「北山王」「中山王」「南山王」と名乗った。
 中山王の察度(さつど)は、英祖王統を滅ぼした後、1372年に明国皇帝の求めに応じて初めて入貢した。察度王が答礼使を送ったことにより、この時代から正式に明との国交が始まった。1406年、佐敷に拠点を置く按司の巴志(はし)が、察度の子で中山王を継いだ武寧(ぶねい)を射ち、父の思紹(ししょう)を王位に就けて国家統一を図る。巴志は父思紹の名で明に使者を出し、思紹は武寧の子で跡を継いだと報告した。明はこれを嘘と見抜いたが、相続をそのまま認めた。
 巴志は明より「尚」の姓を賜り、ここに第一尚氏王統が誕生する。これ以降、巴志と思紹は尚姓を名乗り、実権は巴志が握った。1416年、尚巴志は最大の敵である北山王の攀安知(はんあち)を討つべく今帰仁城を攻め、最後は謀略をもって攀安知を倒した。1429年、尚巴志は南山王 他魯毎(たるみい)も滅ぼし三山の統一を達成、三山時代に終止符を打ち、琉球王朝を成立させた。
 ※「尚」という姓が明から下賜されたと言われているが、明の書物にその記録はない。「尚」という字には「貴い」という意味があり、中華思想から言えば周辺の野蛮な地域の王に与えるにはいささか立派過ぎる。巴志は父親を王に立てたことで、父を按司、自分を小按司と呼んでいたらしい。それを書物に記すとき「小」を「尚」と書いたのではないかという説もある。賜姓か自称か真偽は定かでないが、尚姓を名乗ったことは中国への同化政策といえる。

琉球王国時代

 尚巴志は首里城を築き王府の整備に力を注いだが、彼の死後、王位継承を巡る内紛が相次いだ。1469年、第七代尚徳王の時、先代泰久王からの重臣で、伊是名(いぜな)島から出た金丸(かなまる)のクーデターにより、第一尚氏王統は7代64年で滅んでしまう。代わって即位した金丸は、宗主国の明に武力で前王朝を倒したのではなく、単に跡を継いだだけと届け出て、琉球王国中山王として柵封を受けた。形式上は尚徳の子なので、金丸は尚姓を名乗ることとなり、名を尚円(しょうえん)と改め第二尚氏王統を開いた。
 ※中国の皇帝が属国の国王に対し、その即位を認める文書を与えることを冊封(さっぽう)と言い、中国から派遣される使者を「冊封使」という。三山を統一した尚巴志は、琉球国として明の冊封体制の仲間入りを果たした。以後、琉球王の世代が代わる度に冊封使を迎え、載冠式を行うようになる。冊封使は300〜500名にのぼり、半年以上も滞在するため、冊封使を迎える準備は一大イベントと化した。
 第四代尚真王の時代に、琉球王朝は最盛期を迎える。支配地域は、宮古列島、八重山列島、奄美諸島にまで及んだ。交易がもたらす富により、寺社の造営、架橋工事や道路整備など、首里周辺の大規模整備が行われた。また南洋交易も盛んに行われ、交易は中国、フィリピン、ベトナム、タイ、マレーシア、インドネシアまで広がり、東南アジアのほぼ全域に渡っていた。
 冊封体制の一員である琉球は、ただ単に明国皇帝への貢物を差し出すだけのものではなく、国として認知されるとともに、中国への貢物を運んだ船「進貢船」は、帰りには中国の特産品を満載して戻ってきた。この朝献貿易がもたらす利益に目を付けた薩摩(鹿児島)の島津氏は、琉球に明との仲介を強要する。琉球がこの要求に難色を示すと、薩摩は1609年(慶長14年)、天下人 徳川家康の許しを得て、3000余の兵と軍船100隻を繰り出し琉球を攻めた。
 100年もの間、武器を持たず平和に暮らしてきた琉球と、戦国時代を勝ち抜いてきた島津軍とでは最初から勝負にならず、琉球は瞬く間に攻め落とされた。琉球王府は本島、宮古島、八重山諸島の支配は認められたものの薩摩に従属を強いられ、明に対しては冊封国という二重政治に苦しめられるようになる。

誕生 沖縄県

 その後250年に渡る薩摩による厳しい年貢の取り立てや差別により、琉球王府の財政は窮乏し、琉球国民は飢え苦しんだ。1872年には琉球藩とさせられ、日本人教育を余儀なくされる。一方こうした情勢にも関わらず、文芸、芸能、工芸など琉球文化は第2の隆盛期を迎えた。廃藩置県を行った明治新政府は、明治12年に「琉球処分」を強行し、47番目の県となる沖縄県が誕生した。しかし住民の生活は相変わらず飢餓から抜け出せず、海外や県外への出稼ぎで県経済を支えていた。

終戦・占領・復帰

 太平洋戦争末期、ミクロネシア日本領(当時)はアメリカ軍の攻撃により次々と陥落した。1945年(昭和20年)、慶良間諸島の爆撃に始まった沖縄戦は、アメリカ軍が約1500隻の軍艦と50万人を超える兵を投入、対して日本軍は現地召集の防衛隊員、学徒隊員約2万人を含む約11万人で防衛体制を採った。当時軍部は沖縄島民に非難命令を出していたが、島民の多くが島に残り軍と共に戦うことを選んだ。島南部で展開された激しい地上戦の末、日本軍約10万人、沖縄住民約12万人が戦死、対するアメリカ軍は約1万人が戦死した。
 日本のポツダム宣言受諾により戦争が終結すると、沖縄はアメリカの統治領となり、その支配下に置かれた。1972年(昭和47年)、沖縄は正式に日本に復帰、沖縄県となる。但し復帰後も、日本全国のアメリカ軍基地面積の50%以上が沖縄に集中、実弾演習、戦闘機の騒音、墜落事故、米兵による暴行事件など、沖縄県民は今も苦しめられている。