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フィリピンの歴史

フィリピン
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参考・出典
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先史時代

 先史時代のフィリピンの歴史は、3万〜15万年前の間に始まったとされ、カガヤン川下流域で発見された旧石器時代の道具は、アジア大陸から移動してきた人々が狩りに使ったものと考えられている。歴史学者たちの間では、フィリピンの原住民であるネグリト族もしくはアエタ族は、約2万5000年前にアジア大陸から渡って来たというのが定説となっている。
 パラワン島南西岸、南シナ海側に突き出たリプウン岬にあるタボン洞窟群の発掘調査では、5万年前の石器、2万4000年前のタボン原人の頭蓋骨、紀元前4500年の貝の装飾品、土器、ガラス、象牙、銅、金の装飾品などが発掘された。
 ルソン島ラグナ州のルンバン川では、縦20センチ・横30センチの「ラグナ銅版碑文」と呼ばれる金属片が発見された。刻印されている文字は古代タガログ語か古代マレー語だとされ、碑文の内容からは、古代フィリピンには法が行き届き、社会秩序が維持されていた様子がうかがえる。また多くの原住民の名前が記され、トンドは河川交通の要衝であり、海外貿易の中心地でもあったようだ。しかしながら、銅版がフィリピン領域で製作されたものかは明確でない。

バランガイ時代

 紀元前5000年頃から、中国南西部付近を源流とするマレー人が新石器文化を伴ってフィリピンに渡来。紀元前1500年頃から移住してきたイフガオやボントック族等は初期金属文化を持ち込んだ。紀元前500年頃以降には、タガログ、イロカノ、パンパンガ族等やビサヤ諸島のセブアノ族など、現在のフィリピン人の大部分を占める人々の先祖たちが鉄器などを持って移住してきた。彼らは「バランガイ」という小さな集落を形成し、首長がそれを束ねていた。
 そもそも、バランガイとは「帆船」を指す言葉で、バランガイに乗ったマレー人がフィリピン諸島にやって来て、島の各地に住むようになり、その集団のことをバランガイと呼ぶようになったと言われている。この時代のフィリピンには、大小のバランガイが存在したが統一的な国家はなく、統一的な群島または地域の名称もなかった。各バランガイはそれぞれ、中国、ベトナム、ボルネオ、シャム、日本との経済交易をしていた。
 2世紀頃には、フィリピンの存在は中国で知られており、7世紀頃から移民が始まったとされ、10世紀頃には通商が確立されていた。1372年、初めてフィリピンから朝貢使節が明(当時の中国)を訪れ、1421年まで朝貢関係が続いた。13世紀頃からは、ムスリム系マレー人がスルー諸島を中心に進出、彼らはフィリピンに建築や農業の技術を持ち込んだ。1390年、スマトラ島のラジャ・バギンダがスルー諸島を征服、1475年には、ムスリムの指導者シャリフ・カブンスワンがミンダナオ島で初代国王になった。

スペイン統治時代

 1521年、ポルトガル人のマゼラン(ポルトガル語名:マガリャイス)率いるスペイン探検隊が、世界一周の航海途中でサマール島に上陸、翌月にはセブ島で数百人に洗礼を行うが、セブ島の有力部族の王子であるラプラプ率いる原住民との戦闘となり、マゼランは討たれてしまった。その後スペインは、3回に渡ってメキシコより遠征隊を送り、1543年、4回目のヴィラロボス探検隊に至ってようやくサマール島、レイテ島に到達する。そしてスペイン皇太子のフェリペにちなんで、島々を「Filipinas」と命名する。
 その後、国王となったフェリペ2世は、1559年、メキシコ副王ヴィラスコにフィリピン征服と植民地化を命じ、メキシコ副王領としてのフィリピン征服事業が始まった。1564年、レガスピ率いる遠征隊がセブ島を制圧、1569年にはパナイを征服した。1570年、レガスピはムスリム王ラジャ・ソリマンの支配するマニラに攻撃をかけ占領する。
 レガスピはスペイン国王より初代総督に任命され、マニラを首都と決めた。1596年、ミンダナオ島を攻撃するが、1599年にはビサヤ諸島の反撃にあう。1637年、コンクエラ総督がミンダナオ島、スルー諸島に遠征し激戦を展開するが、ムスリム系マレー人の激しい抵抗にあい、最後までフィリピン南部を征服することは出来なかった。
 1753年、ヨーロッパで起こった7年戦争をきっかけに、1762年、イギリスはスペインに宣戦布告、東インド会社の軍隊がマニラを攻撃して占領したが、2年後に撤退する。イギリスのマニラ占領後、4人目の総督となったホセ・デ・バスコは総合経済計画を発表し、タバコの強制栽培、専売制度を行たった。
 1785年、貿易の独占を目指して王立フィリピン会社を設立するが、イギリスやアメリカの貿易参入により独占は出来ず、1834年にマニラが自由貿易港となり廃止された。列強国により活発化していく世界経済の中、フィリピンでは農産物の需要が高まり、大規模農場経営が進み、スペイン系や華人系のメスティーソ(混血)が大地主となった。
 自由主義思想に目覚めたフィリピン人有産知識階層(大部分がメスティーソ)は、スペインと利害の対立をまねきスペイン政庁の弾圧を受けるようにる。1872年、人頭税や強制労働の免除の廃止に抗議して、フィリピン人兵士と労働者達の暴動が起こる。これをきっかけにスペインの民族差別的宗教政策に対する反対運動をしていた3人の神父が処刑された(ゴンブルザ事件)。このことに反発を強めたホセ・リサールを中心とする勢力は「プロパガンダ運動」を開始する。
 1892年、「フィリピン同盟」を結成したリサールは、まもなく反逆罪で逮捕され流刑となる。これを機に、労働者階層出身の知識人達アンドレス・ボニファシオ等が秘密結社「カティプナン」を結成した。1896年、ボニファシオはマニラ郊外のバリンタワクで武装蜂起を決行、カビテ州の町長エミリオ・アギナルドも決起して戦った。これに対してスペインは、本国から3万の軍隊を投入し、これを鎮圧、リサールはマニラでスペイン軍に処刑された。アギナルドとボニファシオは主導権をかけて争い、アギナルドはボニファシオを処刑、1897年にはスペイン軍と協定を結び香港に亡命した。
 1898年4月、スペインとアメリカはキューバの領有権を巡って戦争(米西戦争)に突入した。アギナルドはアメリカと接触して協力を約束し、アメリカの軍艦で帰国。そして多数のフィリピン人志願兵を得てカビテ州で独立を宣言、革命政府を樹立して大統領に就任する。アメリカはマニラ湾海戦で勝利しマニラ湾を封鎖、遠征隊の到着を待ってマニラを占領した。
 同年12月、アメリカとスペインはパリで和平条約を締結(パリ条約)、スペインはフィリピンの領有権を2000万ドルでアメリカに譲渡する。フィリピン革命政府はアメリカ領有に激しく反発し、1899年2月、米比戦争が勃発したが、翌3月、革命政府は多数の犠牲者をだしてアメリカに敗北した。逮捕されたアギナルドは、アメリカの主権を認めて忠誠を誓う。

アメリカ統治時代

 1902年、ルーズベルト大統領はフィリピン平定を宣言、アメリカはスペインのような直接統治は行わず、民政によりアメリカ経済圏にフィリピンを統合していった。1907年には第1回総選挙が実施され、即時独立を求める「ナショナリスタ党」が勝利、フィリピン議会が発足する。1912年、独立を視野に入れたフィリピン自治法(ジョーンズ法)がアメリカ議会に提出され、1916年に成立した。国会はフィリピン人による二院制となり、選挙でナショナリスタ党が大勝、ケソンが上院議長に、オスメーニャが下院議長となる。
 第1次大戦後、アメリカに対するフィリピンの独立要求は更に活発化し、大恐慌とも重なってアメリカの態度が独立容認に傾いた。1933年、10年間の準備期間の後に独立を認める法案が可決、一部が修正され、フィリピン議会はこれを受諾する。そして憲法議会による憲法のもと10年間コモンウェルスを置き、1946年7月4日に独立を宣言し共和国とする、と定められた。1935年5月、新憲法が国民投票により承認され、同年9月の総選挙にてケソンが大統領に選出されコモンウェルスが発足、1937年からは女性にも参政権が与えられた。

日本統治時代

 1941年12月、太平洋戦争が勃発、日本軍はフィリピンにも進軍した。ダグラス・マッカーサーの命によりアメリカ極東軍はマニラから撤退、1942年1月、日本軍はマニラに無血入城した。ケソン大統領はアメリカで亡命政府を樹立、ケソンの死後はオスメーニャが大統領に就任する。同年4月にバターンが、5月にコレヒドールが陥落し、ウェイライト将軍が降伏を宣言した。
 日本政府は、マニラ市長のバルガスを委員長としてフィリピン行政委員会を発足させ、司法・行政にあたらせた。1942年8月、既存の全政党は解散、「カリバピ」(新生比島奉仕団)が発足した。1943年6月、帝国議会で東條英機首相は年内のフィリピン独立を明言、カリバピは新憲法を起草、総会でこれを承認し、選挙により独立準備委員長のラウレルが大統領に選出された。これにより、日本統治下でのフィリピン共和国が発足する。当時、ほとんどの非白人種の国が列強諸国の殖民地だったことを考えれば、フィリピンの独立は画期的なことと言える。
 独立は果たしたものの、軍政下でもあり経済政策は思うように成果が上がらず、フィリピン人の生活は窮乏した。アメリカとの商売で利益を得ていた華僑を中心とする抗日ゲリラの活動が活発化する。戦局は次第にアメリカ有利に傾き、1944年7月にサイパン島が陥落、同年10月にアメリカ軍はフィリピン諸島のスルアン島へ上陸を開始した。
 日本軍は最後の戦力をここに集中して迎え撃ち、アメリカ軍の上陸を阻止しようとした。結果は、「武蔵」を含む戦艦3隻、空母4隻など計29隻を失う大敗北で、残っためぼしい戦艦は「大和」のみとなった。連合艦隊は事実上壊滅、日本の海軍は実質上失われ、海軍力はほぼ丸腰となった。このレイテ沖海戦の惨敗によって、戦争経済は一路崩壊の一途を辿ることになる。

独立 フィリピン共和国

 1944年10月、マッカーサーはレイテ島に再上陸、翌年2月にはマニラを奪還した。1945年8月、日本はポツダム宣言を受諾し戦争が終結、同年9月にはフィリピンで山下将軍が降伏した。オスメーニャはマッカーサーと共に帰還し、1946年2月、コモンウェルスはマニラを首都として正式に再開された。同年、コモンウェルス最後の選挙が行われ、ナショナリスタ党から分裂した「リベラル党」ロハスが勝利、初代大統領に就任し独立を宣言した。
 独立を果たしたフィリピンだが、政治、経済の両面でアメリカに依存する状態がしばらく続くことになる。軍事的には軍事基地協定および軍事援助協定、相互防衛条約が締結され、実態はアメリカ統治時代とさほど変わらなかった。1950年代は不正選挙や政治腐敗も横行、共産勢力の運動が活発化して、反米ナショナリズムが台頭する。1960年代に入ると、ベトナム戦争を背景に学生運動が激化、反米デモが繰り返された。ミンダナオ島ではイスラム分離独立運動が起こり、武力衝突にまで発展した。
 1965年の選挙で、リベラル党からナショナリスタ党へ鞍替えしたフェルナンド・マルコスが第6代大統領に就任。マルコスは当初、米の自給、工業化の推進、インフラ整備などで業績を上げるが、次第に腐敗政治を行うようになる。不正選挙により再選を果たすと、終身大統領を画策して憲法を改定、戒厳令を布き議会を停止して政敵を一斉逮捕するなどの暴挙にでた。
 強権政治と不正選挙で再選を重ねたマルコスだが、アメリカに亡命していた政敵のベニグノ・アキノ元上院議員が帰国直後に空港で暗殺されるという事件を発端に、大々的な反マルコス運動が展開される。同時に体制側である国軍最高幹部も反乱を起し、正規軍の寝返りが続出する中、アメリカにも見限られたマルコスはハワイに逃亡、代って故ベニグノ・アキノ婦人のコラソン・アキノが大統領に就任(2月革命)した。
 コラソン・アキノは、マルコス独裁遺制の解体、民主主義の回復、新憲法発布、経済基盤再建、司法の信頼回復、国民の権利確認など、大きな業績に残した。任期を全うしたアキノが後継者に指名したのは、幾度ものクーデター計画から政府を護ったフィデル・ラモスで、1992年の選挙でラモスが勝利し大統領に就任した。ラモス政権下で経済成長はプラスに転じ、マニラ、セブ、ダバオといった地域では急速な都市化と工業化が進む。プロテスタント系キリスト教徒のラモスは、指導者として誠実に勤めを果たし、失業、無法秩序、貧困などの問題と全力で取り組んだ。
 1998年、副大統領だった元俳優のジョセフ・エストラダが大統領に就任、庶民派大統領として期待された。しかし、マルコス政権時代の取り巻きを登用したり、不正蓄財、賄賂などを繰り返し、更には賭博売上金上納スキャンダルが発覚して辞任を余儀なくされた。代わって大統領に就任したグロリア・マカパカル・アロヨは、副大統領時代から社会福祉相を兼任し、支持率はエストラダを凌いだ。
 エストラダの不正が発覚してからは対決姿勢を鮮明にし、アキノ元大統領、ラモス元大統領らがアロヨを支持した。アロヨはフィリピン大学で経済学博士号を取得している経済専門家で、エストラダ政権下で膨大な財政赤字を抱えた国家経済の再建手腕に期待が集まっている。
 【2001年1月現在】