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パラオの歴史

パラオ
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パラオ 旅行記
ミクロネシア連邦の歴史
参考・出典
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先史時代

 遺跡から発掘された出土品の年代測定によると、パラオには紀元100年の段階で人が住んでいたようだ。最初の村はペリリュー島のサザンアイランドとアンガウルにあったことが立証されている。バベルダオブ島にある建築物の年代測定の結果は、紀元200〜1400年であった。ロック・アイランドでは、紀元1200〜1600年の間の遺跡が数多く発見されている。

パラオ諸島の発見

 16世紀初頭、スペイン船がパラオ南部のソンソロール島に到着したが、嵐のために流され12人が命を落とした。この時期にパラオを訪れたスペイン人は、現地の人々が自分たちの土地を「ベラウ」と呼んでいたことから、この地を「ロス・パラオス」と名付け、その後ドイツ人が省略してパラオと呼ぶようになった。
 1783年、ヘンリー・ウィルソン率いるイギリス商船アンテロープ号は、マカオからイギリスへ戻る途中、嵐に巻き込まれて難破してしまい、乗組員の一部がウーロン島に漂着した。乗組員はコロール島の酋長のひとりであるイベドゥルと友好関係を結び、数ヶ月をかけて新しい船を完成させた。彼らは完成した船にウーロン号と名付け、最終的にイギリスに戻ることができた。
 ウーロン号の話しはヨーロッパ中に知れ渡り、各国がパラオのコロール島に立ち寄るようになる。ヨーロッパ人はパラオに何人もいる酋長のひとりに過ぎないイベドゥルをパラオ王だと勘違いしていた。イベドゥルはヨーロッパ人が持ち込んだ鉄砲の力を借りて勢力を伸ばした。

スペイン統治時代

 19世紀後半になると、ヨーロッパから持ち込まれた鉄砲と天然痘によってパラオの人口は10分の1まで激減してしまう。そんな状況の中、スペインはパラオの内戦を収め、1885年に領有権を主張。1891年に宣教師がキリスト教の布教を開始し教会や学校などを建設するが、たいした植民地政策を執らなかったので、スペインの影響は少なかった。

ドイツ統治時代

 1898年、スペインはキューバの領有権を賭けたアメリカとの戦争(米西戦争)に敗北し、1899年、財政難からパラオを含むカロリン諸島の領有権を2500万ペセタ(1675万マルク)でドイツに売却した。ドイツは多くの医師や学者をパラオに送り込み、歴史や伝統文化などの研究をした。更に、燐(りん)やボーキサイトの採掘、ココナッツ栽培など、産業開発にも力を入れた。しかしドイツ人は統治する人間を置くだけで移住しなかったため、現在のパラオにドイツの影響はあまり見られない。

日本統治時代

 1914年、第1次世界大戦が勃発すると連合国側として日本もドイツに宣戦を布告、太平洋のドイツ領を目指して南進を開始した。日本軍は瞬く間にミクロネシアを無血占領し、パラオは日本海軍の重要拠点となる。1918年、史上初の世界戦争は終了し、戦後発足した国際連盟によってパラオは戦勝国の1つである日本の委任統治領とされた。
 ドイツ統治時代から貿易や経済活動でパラオに進出していた日本は、移住者を多数パラオに送り込む植民地政策を執った。水産業、農業、鉱業などの研究所を設置、医療施設、学校なども建設した。また、日本文化や日本語を学習させパラオ人を日本人として教育したため、現在もそのままパラオ語として定着した日本語がたくさんある。
 1922年には、ミクロネシア日本領全体を統治する南洋庁がパラオに設置され、2万5000人の日本人が暮らす状況になった。1998年3月現在のパラオの人口が2万人弱であることを考えると、いかに多くの日本人が移民したかが分かる。
 1941年、日本軍はハワイ真珠湾のアメリカ軍を爆撃して太平洋戦争が勃発した。パラオは日本軍の太平洋上の防波堤として重要な役を担う。日本軍はアメリカ軍とパラオ各地で激しい戦闘を繰り広げ、僅か3ヶ月の間に2万人以上が戦死した。中でもペリリュー島とアンガウル島は壮絶を極めた。日本軍守備隊長は全島民を非難させてアメリカ軍を迎え撃ち、日本軍1万人全員が玉砕した。
 ※「太平洋を表す青に満月」がデザインされたパラオ国旗は、一般公募の中から選考委員により選ばれた。「日の丸」に似ているので一番人気が高かった、というのが選考の理由で、その事はペリリュー島の玉砕と深く関係している。以下、国旗選考委員の談を抜粋した。 『...我々は戦争中に、日の丸を掲げて強大な米軍と交戦した日本軍将兵の勇敢さと純粋さに、大きな魅力と尊敬を捧げている。一万に及ぶ英霊達は私達に、勇気と国を想う心があれば、アメリカよりも強くなれることを教えて死んだのである。』

アメリカ統治時代

 1945年、日本のポツダム宣言 受諾により戦争が終結した。1947年、国連の委託により、パラオはアメリカの信託統治領とされた。日本統治時代に浸透した日本文化の影響を消すために、アメリカは英語とアメリカ式ライフスタイルの導入を推進した。経済的にもアメリカに頼らざるをえないパラオは、急速にアメリカ化して行くことになる。
 誇り高いパラオ人は、自国文化の消失を危惧し、アメリカの信託統治を脱して独立国となることを望んだ。1981年、自治政府を発足させ憲法制定を行ったが、憲法の中に日本国憲法に習った非核条項(領土内への核兵器持ち込み禁止)が含まれていたため、アメリカの利害と対立し強い反発を受けた。

独立 パラオ共和国

 1982年、信託統治を終了させるためにアメリカとの間で自由連合盟約案の合意に至るが、これを巡って国内が親アメリカ派と憲法擁護派に分かれて対立する。1983年以降、7回実施された住民投票では、いずれも75%以上の賛成が得られず、信託統治の終了は承認されなかった。その間、大統領の暗殺や自殺、ストライキや爆破事件などが多発し、政情が不安定になった。
 1992年、住民投票にて非核条項を盟約案には適用しないことが承認された。1993年、第8回目の住民投票にてようやく自由連合盟約案が承認された。これを受け翌1994年、自由連合 盟約を発効(2040年まで有効)、パラオは遂に世界最後の国連信託統治領からの独立を果たし、同年、国際連合にも加盟した。現在パラオでは、共和国としてアメリカ式議会政治が行われている。