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マリアナ諸島の歴史

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参考・出典

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先史時代

 紀元前1500年頃、インドネシアやマレーシアからカヌーで海を渡ってマリアナ緒島にやって来た人々が、チャモロ人の祖先と云われている。古代チャモロ人はインドネシア語やマレー語に似たチャモロ語の原型を作り、高床式建築物を建て、マリアナ赤色土器や石灰充てん印文土器を使用していた。

 紀元前800年頃になると、これに代わってマリアナ無文土器が登場する。北マリアナ諸島の旗にも使われている、タガ・ストーンもこのころ現れた。タガ・ストーンは、島の基盤である石灰石を切り出した角柱に、半球形の石を乗せた石柱で、高床式住居を支える土台に使われたとされている。しかし、大きいのもになると高さが5メートル以上もあり、宗教的機能を持っていたとも解釈されている。

マリアナ緒島の発見

 1521年、ポルトガル人のマゼラン(ポルトガル語名:マガリャイス)に率いられたスペイン探検隊が、世界一周の航海中、偶然グアム島を発見する。チャモロ人はマゼラン一行を歓迎し、水や食料を与えた。相手が望む物を与え、自分の望む物を貰う、というこの地域の習慣に従い、チャモロ人は探検隊の小舟や鉄片などを勝手に持って行ってしまった。これに怒ったマゼランは、グアム島をラドロネス島(どろぼう島)と名付けてグアムを去って行く。

 その後マゼランはフィリピンのセブ島に到達するが、現地人と戦闘になり殺されてしまった。しかし艦隊はその後も航海を続けて、無事スペインにたどり着き世界一周を達成する。1565年、スペインの第2次探検隊が再びグアム島を訪れ、グアムを始めとするマリアナ緒島を正式にスペイン領であると宣言した。以後約300年の間、マリアナ緒島はスペインの植民地支配を受けることになる。

スペイン統治時代

 1667年、スペインは大后マリー・アンヌ・ドートリッシュの名を取って、この地域を「マリアナ諸島」と名付けた。そしてイエズス会の宣教師を送り込み、この地域のキリスト教布教の本拠地にしようとした。宣教師はチャモロ人に布教を始めたが、キリスト教の教えはチャモロの風習と相反する面が多く、1672年のサン・ヴィトレス神父殺害事件を発端に各地で紛争が起こった。

 このスペイン・チャモロ戦争は実に23年間にわたり続いた。1698年、スペインはマリアナ諸島の全チャモロ人をグアム島に強制移住させ、厳しい統治政策を指揮を執った。当初10万〜15万人いたとされるチャモロ人は、1726年には5000人以下にまで激減したと言われ、彼らが代々伝承してきたチャモロ人の伝統文化の大半が、この時代で消滅した。しかし、グアム島とテニアン島に挟まれたロタ島には、チャモロ文化が色濃く残っている。強制移住させられた際、少数のチャモロ人がロタ島に逃げ込み、固有の文化を伝承していた。

ドイツ・アメリカ統治時代

 1898年、スペインはキューバの領有権を賭けたアメリカとの戦争(米西戦争)に敗れたため、グアム島をアメリカに割譲し、翌年にはグアム島を除くマリアナ諸島とカロリン諸島の大半をドイツに売却した。グアム島を統治下に入れたアメリカは、衛生環境設備と英語教育に力を入れた。病院や学校の建設が積極的に行われ、チャモロ人は急速にアメリカ化していくことになる。

日本統治時代

 1914年、第1次世界大戦が勃発すると、連合国側として日本もドイツに宣戦を布告、当時ドイツの統治下にあったミクロネシアの島々を無血占領した。1918年に戦争は終結、翌年の1919年、戦後発足した国際連盟によって赤道以北の旧ドイツ領ミクロネシア(除グアム島)は、戦勝国の1つである日本の委任統治領とされた。

 1921年、松江春次はサイパン島に南洋興発株式会社を設立。沖縄から農夫を数千人呼び寄せてサトウキビの栽培をさせ、巨額の予算を割いてサイパン島に鉄道を敷き、日本への砂糖輸出を始めた。ロタ島やテニアン島でもサトウキビ栽培を成功させ、製糖工場は東洋屈指の規模に達し、松江春次は後に砂糖王と称された。

 1941年、日本軍はハワイ真珠湾のアメリカ軍を攻撃し太平洋戦争が勃発、開戦からわずか3日でグアム島を占領した。開戦当初は快進撃を続けた日本軍だったが、アメリカ軍に反撃の態勢が整ってくると徐々に敗色が濃くなって行く。1943年、連合艦隊主力部隊は、太平洋最大の基地であるトラック(チューク)島から撤退。その直後、トラック島はアメリカ軍の空爆を受け、島に残った守備隊は壊滅した。この爆撃を皮切に戦火は激しくなり、アメリカ軍は日本軍が基地としていた島々を1つ1つ攻略して行った。

 1944年、アメリカ軍はサイパン島に上陸を開始、日本軍と激戦を展開した。アメリカ軍の死者は約1万人、日本軍の死者は約3万人、生き残ったのは僅かに1000人余りという玉砕戦となる。日本軍により要塞化され難攻不落と思われたサイパン島も、1ヶ月と経たずに陥落。更にアメリカ軍は、グアム島、ロタ島、テニアン島と次々上陸して日本軍を退けた。

 アメリカ軍は、グアム島、サイパン島、テニアン島に滑走路を造り、日本本土の都市を次々に爆撃した。東京大空襲では10万人以上の市民が焼夷弾により死傷、広島と長崎に投下された原子爆弾では、両都市を合わせて30万人以上の市民が犠牲となった。ちなみにこの原子爆弾はテニアン島から出撃したB29爆撃機によるもの。

アメリカの自治領へ

 1945年8月、日本はポツダム宣言を受諾し戦争は終結。日本の敗戦でミクロネシアの旧日本領は、国連によりアメリカの信託統治領とされた。1950年、グアム島はアメリカ自治属領(準州)となり、1986年には北マリアナ諸島がアメリカ自治領となった。グアム島は現在もアメリカの軍事上重要な拠点で、島の約5分の1の面積を軍関係施設で占めている。グアム人はアメリカ合衆国の市民権はあるものの、大統領選挙の投票権はない。