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マレーシアの歴史

マレーシア
関連リンク
マブール島 旅行記
参考・出典
マレーシア 地球の歩き方
マラッカ王国 ウィキペディア

先史時代

 1世紀頃のアジアは、モンスーンを利用した航海術が発達し、海上交易が活発化した。当時、エジプトのアレキサンドリアで記された『アリュトラー海案内記』や古代インドの文献には、マレー半島が「黄金島」「黄金の土地」「黄金州」という名で登場する。このことから、当時のマレー半島は、インドなどへの金の供給地だったと推定されている。
 4世紀後半から5世紀、東南アジアでインド文化の受容が進展した国家郡が出現する。中国の文献によると、6世紀初頭のマレー半島に「赤土国」という王国が存在したと言う。また、6世紀以降、ボルネオ島北西部の王国が断続的に中国へ朝貢したらしい。

シュリーヴィジャヤ王国

 7世紀、西アジアのイスラム文明圏形成と、東アジアの唐による中国統一により、アジア交易はシルクロードと海上ルートを介して活発化した。特に物資の大量輸送が可能な海上ルートによる交易が発展し、中でもマラッカ海峡ルートの利用が盛んになった。こうした状況に対応し、7世紀後半、スマトラ島南部にシュリービジャヤ王国が成立、東南アジア交易の中心地となった。シュリービジャヤ王国は海軍力により近隣諸国を服属させた。一方で中国へも朝貢し、西アジア、インド、ジャワの商品はシュリービジャヤ王国を介して中国市場へ流通した。
 シュリーヴィジャヤ王国の最盛期は7世紀後半から8世紀半ばで、首都パレンバンを中心とする広大な領域を支配した。マレー半島西岸のケダーを副都として12ヶ国を従えるインド文化の大帝国だった。遠征軍をジャワ島や周辺諸国に派遣し、マレー半島北部のリゴールにまで勢力を伸ばした。。
 8世紀後半、ジャワ島中部のシャイレーンドラ朝の王家で内紛が起こり、後継者争いに敗れた王子の1人がシュリーヴィジャヤ王国へ逃れてその王女と結婚、シュリーヴィジャヤの王統はシャイレーンドラの支配下に入る。9世紀後半、シャイレーンドラ朝が衰退し、その後、唐の滅亡と共に交易は衰え、シュリーヴィジャヤの消息も途絶える。
 10世紀後半、中国に宋が成立して再び海上貿易が盛んになると、シュリーヴィジャヤは隆盛を取り戻す。この時代のシュリーヴィジャヤは南インドのチョーラ朝と友好を通じ、政治・経済・文化などあらゆる面で影響を受けた。中でも中部インドに拠点を置く大乗仏教が盛んに行われた。
 しかし友好関係は長く続かず、11世紀初め、チョーラ朝の国王が代わるとシュリーヴィジャヤはチョーラ朝の襲来を受け、副都ケダーを奪われ、約半世紀の間マラッカ海峡の支配権を失う。また、本国パレンバンも襲撃され、国王は捕らえられ財宝は掠奪された。この襲撃でパレンバンとケダーは壊滅しシュリーヴィジャヤに衰退の兆しが見え始める。

マラッカ王国

 14世紀末、パレンバンはジャワのマジャパイト王国の侵略を受け占領される。パレンバンは独立を企てるが失敗、マジャパイト王国に滅ぼされ、伝統あるシュリーヴィジャヤ王権は消滅した。シュリーヴィジャヤの王子であったパラメスワラは、マジャパイトの侵攻を逃れてマレー半島を転々とし、15世紀初め頃、マラッカ海峡の「オラン・ラウト」と呼ばれる海の民の協力を得てマラッカに建国、パラメスワラは初代国王となる。
 マラッカ海峡地域は、モンスーンの交替を待つのに適した風待ちの地で、交易中継都市の要件を備えていた。建国当初のマラッカは、シャムに服属する小国に過ぎなかった。この頃、明の永楽帝が派遣した第1次鄭和艦隊が来航、南シナ海とインド洋での通商覇権をめざす鄭和艦隊はマラッカを根拠地とすべくパワメスワラを招撫した。これに応じてマラッカ王国は明に何度も朝貢使節を送り、その忠実な朝貢国となりシャムを牽制した。。
 また、パラメスワラはイスラム商船の来航を促すため、イスラム教に改宗もした。こうして明の鄭和艦隊の保護下でマラッカは東西貿易の中継港としての道を歩み始めた。この間、パラメスワラを始め歴代国王は、鄭和艦隊に同乗して何度も明を訪れている。
 第5代ムザッファル・シャー王のころ、マラッカの競争相手は北スマトラのイスラム港市であったが、国王は国教をイスラム教と定め、隣国シャムのアユタヤ王朝の侵攻を撃退、マレー半島全域やスマトラ島東海岸にまで勢力を拡大し、次第に東西貿易の中継港として繁栄するようになった。
 第6代マンスール王はマラッカ国王として始めてスルタン号を称し、アユタヤの属国であったパハンを降し、ジャワ島北岸に成立した多数のイスラム港市と協力してマジャパイト王国をさらに弱体化させた。
 第8代マームド王は、父王が毒殺されたために幼くしてスルタンに擁立されたが、大臣に有能な者が多く、交易港としてのマラッカは最盛期を迎える。当時インドのイスラム系グジャラート人がもっとも重要な貿易相手であり、南インドのタミル人やジャワ島人がこれに続いた。交易の内容はインドの綿織物をモルッカ諸島の香辛料やスマトラ島の金と胡椒、中国の絹と陶磁器、チモール島の白檀などとの交換である。
 琉球王国の外交文書を記録した歴代宝案には、琉球国王・尚徳(第一尚氏王統 第七代国王)は1463年マラッカに貿易船を発遣し、マラッカ国王マンスールへの書簡を託して交易の便宜を図るよう依頼、絹織物・腰刀・扇・青磁器などの品を送ったと記されている。その後も琉球からマラッカ国王宛の書簡は度々記録されており、1470年マラッカのスルタンも琉球船に書簡を託し、琉球国王に礼を述べるとともにインド木綿などの品を贈った。
 琉球の交易船は毎年2、3隻マラッカに寄港し、インド綿織物や胡椒などを購入した。マラッカには、金、銅、刀、紙、生糸などを搬入した。琉球国王からマラッカ国王宛の書簡は合計20件に達し、16世紀初頭まで続いた。

ポルトガル統治時代

 16世紀になると喜望峰経由でインドに来航していたポルトガル人が東方に目を向け、香辛料の原産地であるモルッカ諸島を押さえようとしていた。そのためには中継地となるマラッカがどうしても必要な港であった。
 1509年、ディオゴ・ロペス・デ・セケイラの率いるポルトガル遠征隊がマラッカに初めて到着したが、当時インド洋でポルトガルの海洋覇権と対立していたイスラム系商人が扇動したため、王国はポルトガル人と対立し、ポルトガル艦隊は何人かの捕虜を残してインドに帰った。この知らせを聞いたポルトガルのインド総督アフォンソ・デ・アルブケルケは1511年、18隻の艦隊と800人のポルトガル人兵士を率いてマラッカ討伐に来航、2ヶ月の攻防戦の後マラッカはついに陥落した。
 マラッカを手にいれたポルトガルは、モルッカ諸島に進出し香料貿易を支配した。しかしマラッカ海峡には、スマトラ島北端に興きたアチェ王国が香料貿易に割り込んできた。アチェにはイスラム教国の代表意識があり、キリスト教徒に奪われた香料貿易をイスラム教徒の手に取り戻そうとする宗教的情熱もあった。一方、ジョホ−ルに逃れた旧マラッカ王国の巻き返しもあった。この結果マラッカ海峡ではポルトガル、アチェ王国、ジョホ−ルの三竦みとなって攻防を繰り返し、三者共倒れのすきに新興国オランダ、イギリスが台頭してくる。
 本国の人口が少なく、国力に劣り、しかもイスラム教徒から毛嫌いされたポルトガルのマラッカ支配は次第に息切れをした。1642年、オランダとジョホ−ル王国の連合軍にマラッカを海上から包囲されて、食料の供給を断たれ、遂にポルトガルは破れた。アジアにヨ−ロッパ最初の足跡を残したポルトガルだったが、新興勢力に追いやられ香料貿易から脱落した。

イギリス統治時代

 18世紀末、イギリスはインド・中国間の交易拠点を求め、19世紀初期までにペナン、マラッカ、シンガポールを次々に獲得していく。東インド会社を設立したイギリス・オランダ両国は植民地競争を何度か繰り返した後、1824年、英蘭協定を結ぶ。この協定により、スマトラ島とシンガポール海峡の南側エリアはオランダの勢力圏、シンガポールとマラッカを含むマレー半島はイギリスの勢力圏とされた。
 ヨーロッパ列強のねらいは、マレー半島から産出するスズとゴムであった。産業革命が起こり、食物の保存法として、缶詰が脚光を浴びていた当時、スズは缶詰の缶を作るのに不可欠な物だった。スズの採掘に中国人労働者が、そしてゴム園にインド人労働者が導入され、人種の違う人々はこうして集まってきたが、人種間の争いも多く、様々の問題を抱えていた。
 19世紀中頃、ペラのスズ鉱山地域で中国人移民の抗争が、次第に中国人秘密結社の抗争に発展し、遂にはマレー人貴族を巻き込むベラ王位継承紛争にまで波及した。イギリスは海峡植民地の経済的利益を守り、慢性化した紛争を解決するため、それまでの政策を転換し積極的に介入を始める。ペラ紛争解決に乗り出したのを皮切りに、マレー諸国に次々介入、その結果20世紀初頭には、マレー半島はイギリスの支配下に置かれた。
 19世紀後半は、ボルネオ島でもイギリスの影響力が拡大した。イギリス人のジェームス・ブルックスはサラワクの反乱鎮圧に協力して、ブルネイ王からホワイト・ラージャ(白人王)に任命されサラワクの支配を任された。19世紀後半、ヨーロッパ列強の関心が北ボルネオに集まる。イギリスはドイツ、スペインと協定を結び、1888年、サラワク、ブルネイ、北ボルネオを保護国とし、ボルネオ島の北部はイギリスの支配下に入った。

日本統治時代

 1941年12月、太平洋戦争が勃発、時期を同じくして日本軍はクランタンのコタバルに上陸し、さらにマレー沖のイギリス東洋艦隊に攻撃をしかけた。イギリスの誇る世界最新鋭の戦艦プリンス・オブ・ウェールズとレパルスの2隻は、日本海軍の航空機による爆撃で撃沈した。このことは「作戦行動中の戦艦を航空機で沈めることはできない」という当時の常識をくつがえし、世界の海軍戦略である大艦巨砲主義に大きな影響を与えた。
 150年以上にわたるイギリスの植民地支配に苦しめられていたマレー人は、半島を進撃する日本軍を歓迎した。食糧を提供したり、ジャングルの地理案内をしたり、軍需物資の運搬まで手伝った。このような現地の人々の支援もあって、日本軍は60日間の激戦の末、イギリス軍アジア最大の要塞、シンガポールを攻略する。1942年2月、ついにイギリス軍は降伏し、150年におよんだイギリスのマレー支配は終わりを遂げた。
 イギリス軍を駆逐したあと、日本軍はマレーの青年教育に力を注ぐ。1942年5月、シンガポールに「昭南興亜訓練所」を開設し、マレーのすべての民族から優秀な青年を招いて心身共に訓練した。これは後にマラッカの「マラヤ興亜訓練所」に引き継がれ、1000名を越える卒業生を送り出した。また、日本の軍政部がそれまで西欧人専用だったクラブやプールなどを、肌の色にかかわりなく一般に開放するなどの政策をとり「民族の平等」を掲げたことは、マレー人やインド系移民の間にあった白人に対するコンプレックスを取り除き、独立心を目覚めさせた。
 日本軍に好意的なマレー人に対して、もとは鉱山労働者として移民してきた中国系の子孫たちは、イギリスとマレー人の間で経済活動を握っていたこともあり、日本の進出を歓迎しなかった。また支那事変以来、日本と本国が戦争状態にあったことも作用し、むしろイギリスとの経済的権益を守るために、イギリスに協力して抗日ゲリラ活動を行った。
 戦局は物量と戦略において勝るアメリカに次第に有利に傾きはじめる。マリアナ諸島を失ったことで本土への空爆を許し、フィリピン・レイテ沖海戦の大敗で、日本はその海軍力をほぼ失った。1945年8月、アメリカ軍は広島と長崎に原子爆弾を投下、両都市を合わせて30万人以上の一般市民が犠牲になった。日本はポツダム宣言を受諾し連合国に降伏、日本によるマレーシア支配は3年8ヶ月で終りを迎えた。

独立 マレーシア

 戦後、イギリス軍が再びマレーを占領し、植民地にするために戻ってくるが、マレー人は以前の従順なマレー人ではなくなっていた。イギリスはイギリス領マラヤの市民に市民権を付与することなどを盛り込んだ「マラヤ連合」案を提案するが、この案に反対するマレー人を中心に、独立を志向する民族運動が活発化する。この運動の中心となり、その後の新しい国づくりの中核になったのが、「マラヤ興亜訓練所」の卒業生だった。
 その後イギリスから妥協案として、マレー人の特権を容認する「マラヤ連邦」案を提出され、マラヤ、ペナン、マラッカからなるマラヤ連邦が発足し、1957年には独立を果たす。その後、ラーマン首相が発表した「マレーシア構想」がシンガポール、サバ、サラワクで支持され、1963年、これらの地域を加えたマレーシアが成立した。1965年にはシンガポールがマレーシアから独立する。